遠藤優介(えんどうゆうすけ)さんのピザ専門店ナポリ、ナポリスなどを経営する遠藤商事が破産手続きを受けることになったそうです。
いわゆる倒産です。
500円くらいの低価格帯でピザを提供するお店として人気だったのに残念。
そこで、
・遠藤優介の経歴や幼少期について
・遠藤優介のサッカーの実力
・遠藤商事の経営するお店について
・遠藤商事ナポリ立ち上げについて
・倒産した理由
について調べてみました。
遠藤優介(遠藤商事)が経営するお店と倒産理由
遠藤商事の経営するお店はこんなにありました。
●NAPORI(ナポリ)
●Napoli’S(ナポリス)
●Barta(バルタ)
●麺屋黒琥
●30カレーキッチン
●魚英
●餃子の山
2016年9月期にどんどん業績を伸ばし年間売上25億2600万円を達成しています。
ただ、新規出店など資金繰りがうまくいかなくなり、2016年には一部取引先への支払いが滞っていたようです。
業界内で不安が広がり、今回の結果になってしまいました。
倒産の理由は資金繰りが上手くいかなくなったことが大きな理由のようですね。
飲食店経営ピザ店「NAPORI(ナポリ)」「Napoli’S(ナポリス)」などを全国展開破産手続き開始決定受ける。
TDB企業コード:248003500負債12億7821万円「東京」(株)遠藤商事・Holdings
(資本金1億994万5000円、目黒区八雲3-10-3、代表遠藤優介氏)は4月28日に東京地裁より破産手続き開始決定を受けた。
(出典元:http://www.tdb.co.jp/)
今回の破産手続きに至ることになった遠藤商事の遠藤優介さんはどのような経歴を歩んできたのでしょうか。
遠藤優介さんのプロフィールや経歴を幼少期からどのような人物だったのか掘り下げて見てみたいと思います。
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遠藤優介のプロフィール
名前:遠藤優介(えんどうゆうすけ)
生年月日:1983年1月25日
出身地:横浜市三ツ沢
役職:株式会社遠藤商事 代表取締役
理念:「ピッツァを日本人の主食に」
遠藤優介の経歴・出生について
遠藤優介を調べていると、目を疑うような事実に驚きました。
まず、遠藤優介さんは自身の正確な生年月日を知りません。
それもそのはず。
実は、・・・
生後三か月ぐらいのときに木箱に入れられ、川に流されていたところをお寺の住職に助けられたからです。
このお寺があったところが横浜の三ツ沢にあったから出身地は三ツ沢になっているのです。
育ての親はこのお寺の住職さんです。
お寺で育てられた遠藤優介さんは「漢」になることを強要されました。
一杯のごはんを食べるにも、仕事をしなければならず、小さな手と細い腕で仕事をしたようです。
しかし、まったく辛いとも思わなかったそう。
なぜならそれ以外のことはまったく知らなかったからです。
その後、遠藤雄介さんは孤児院や里親に引き取られて、名字の遠藤は何度か変化することもあったようです。
遠藤雄介さんは両親がいないために親というものが理解できないとはっきりと言っています。
また、幼少期から日本語があまり理解できなかったようです。
おそらくこの原因は親との交流がなかったからではないでしょうか。
1月といえば、一番寒い極寒です。
そのような寒い時に川に流されていたなんて・・・。
涙腺崩壊です・・・・。
( ノД`)…
いまどき、韓国ドラマでも脚本にはありませんよ。
なんという出生でしょうか。
今のこの日本において、このような出生がドラマ以外であるなんて・・・。
何だか、会社について調べていたら遠藤優作さんについていろいろ調べてしまいました。
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遠藤優介の経歴・小学生の頃
小学校に入学すると山ザルとのあだ名がついた遠藤優介さん。
義務教育である小学校ですが、1年生の時はほとんど出席しなかったそう。
袈裟のような上着とスリッパだけしかありませんでした。
筆箱も鉛筆もなかったそうです・・。
小学校の先生も何もしてくれなかったんだとか。
そんな遠藤雄介さんにも小学校3年生の時に、山ザルと言われて取っ組み合いの喧嘩。
その時の相手は永井君と鵜飼君だそうですが、今では大切な友達になったんです。
その友人らは、後に有名なサッカー選手になっています。
遠藤優介の経歴・サッカー少年時代
遠藤雄介さんの友達の鵜飼君ですが、お父さんが有名なジュニアサッカーチームのコーチをしていました。
鵜飼君の父親が遠藤雄介さんにサッカーするように勧めてくれたそうです。
そのチームは有名なだけに規模も大きくて200人ぐらいの選手が在籍していました。
チームは10数軍まで存在したとか。
当然、遠藤雄介さんは一番下のチームからの出発。
その当時の遠藤雄介さんはサッカーをするというよりも、お弁当が目当てだったみたいなところがあったそうです。
チームに入れば、お弁当が支給されたそうです。
それで残ったお弁当10個も持ち帰ったこともあるそうです。
そんな遠藤雄介さんですが、半年もかからず1軍の練習に参加するぐらい成長しました。
マンガの登場人物みたいな方ですよね。
涙腺崩壊です・・・・。
( ノД`)…
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遠藤優作の経歴・中学生時代セリエA
中学一年生の時、国立競技場での試合で決めたフリーキックがゴールに突き刺さりました。
それがイタリアサッカー協会のお偉い人の目に留まったようです。
そのため、Jリーグからの誘いも断りあの有名なセリエAに3年契約で進むことになりました。
遠藤優作のサッカーの挫折とピザの出会い
日本ではトップクラスの実力をもっていた遠藤優介さんですが、イタリアセリエAに行くとあまりの力の違いを感じたそうです。
それは1週間もかからなかったそうです。
3年契約の終了後は他のチームからの誘いはなかったそうですね。
ただ、チームに所属している時は衣食住がすべて支給され、給料まで支給されたので貯金が出来たそうです。
(( ;∀;)よかった~~!!)
そのお金でイタリア旅行をすることにしたそうです。
その旅で出会ったのがナポリで出会った今のピザだったそうです。
遠藤雄介さんはそのピザがおいしくて毎日通い、そのうちにそのお店で働くようになったそうです。
そのお店が始まりでローマ、ミラノでもピザ職人として働くことになります。
考えられないことですが、この当時の遠藤雄介さんはイタリア語が全く出来なかったようです。
しかし、身振り手振りでコミュニケーションをとっていたとか。
このたくましさは凡人では真似できません!
本当に驚きを隠せませんね・・・。
16歳から18歳までイタリアで働きその後遠藤雄介さんは日本に帰国することになります。
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遠藤優作の経歴・ナポリ立ち上げまで
イタリアから帰国した遠藤優作さんはボクジングをするようになります。
運動神経のいい遠藤優作さんは、すぐにプロになりました。
東日本、西日本のチャンピオン手前まで登りつめたそうです。
遠藤優作さんはサッカーでもボクシングでもすぐに頭角を現すことができるすごい才能と努力ができる人ですよね。
周りの選手たちから「世界獲れる」とまで言わしめた人物なのです。
ただ、ボクシングでも頭角を現したものの諦めることになりました。
その後、遠藤雄介さんはある縁でイタリアレストラン「カンティーナ」のオープンに参加することになります。
そこで、予想の4倍以上を売りあげたことでまたここでも頭角を現しました
また、「ピッツァ・サルヴァト-レ・クオモ」の立ち上げに参加したそうです。
すると、ここでまた出会いがありました。
なんと、世界一のピザ職人の大西誠さんと出会うことになります。
遠藤優作さんの人生にまた転機が訪れることになったのでした。
もともと独立志向の強い遠藤雄介さんは有名な大西誠さんのもとでピザを学び「ピッツァリア バール ナポリ吉祥寺」を経営をするようになりました。
なんと社長です。
( ( ;∀;)やったね!!)
その後、どんどんと規模を拡大していったそうです。
しかし、その結果が今回の倒産になってしまいました。。。
((+_+))あれれ・・
この遠藤優介さんですが、今までの生き方があまりにも常人では考えなれない発想力と行動力で切り抜けてきたので、今回の件に関しても必ず、突破口を見つけて再び這い上がってくると信じています。
かげながら応援しています!
是非、頑張ってください!