アントニオ猪木さんがイラクで人質解放に一役を買ったようですね。
そのアントニオ猪木さんが番組で「アントニオ猪木がテレビ史を揺るがせた100の重大ニュース、スクープ映像の舞台裏」に出演しました。
そこで、
・アントニオ猪木のプロフィール
・アントニオ猪木のイラクでの活動
・ウダイ・フセイン(フセイン大統領の長男)の生い立ち
・ウダイ・フセインの暴君っぷり
・ウダイ・フセインの影武者
これらについて調べてみました。
それでは、まずアントニオ猪木さんについて調べてみましょう♪
アントニオ猪木のプロフィールと経歴
名 前 :アントニオ猪木
生年月日:1943年2月20日
出 身 :横浜市
趣味 :ワイン
好きな食べ物:納豆、果物
1943年2月20日に横浜市鶴見区に生まれる。
14歳のとき、家族とともにブラジルに移住。
1960年、力道山にスカウトされて帰国、日本プロレスに入団。
1966年東京プロレスを旗揚げ。
1967年日本プロレスに復帰した後、1972年に再び独立し新日本プロレスを興す。
レスラーとして初の国会議員となった。
98年プロレスラーを引退。
2011年は、東日本大震災の被災地で復興支援を行い8月27日(土)のINOKI GENOME大会では被災者1000人を会場である両国国技館に招待した。
そして7月10日に中国・上海でプロレスイベントの第一回大会を開催。
また12月にはパキスタンで大会を開催。
今年の2月にはブラジル、キューバ、パキスタン、パラオの親善大使にも任命された。
70歳を迎え、ますます元気に躍進する。
(出典元:http://profile.ameba.jp/)
このような経歴をお持ちのアントニオ猪木さんですが、
「1.2.3.ダー」
「元気があればなんでもできる」
のキャッチャフレーズでも有名です。
今回のお話は湾岸戦争の前の年のお話です。
イラクのフセイン大統領が日本人を人質に取って、この時に人質救出に立ち上がったのが史上初レスラー出身アントニオ猪木参議院議員だったのです。
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アントニオ猪木さんが人質救出
アントニオ猪木さんが人質を救出した後に述べたインタビュー記事です。
ちょうど議員になってすぐの時期に、キューバでカストロ議長と「(イラクについて)平和的解決したい」と話をしました。
日本に帰ってすぐにヨルダン経由でイラクに入った。
イラクの首都バグダッドに入ったら、報道陣はみな私が泊まるホテルに集められていたのです。
当時まだ現役のレスラーであったのでランニングだけはしないといけなかった。
向こうの案内人に「走るのは自由だが、撃たれても責任持ちませんよ」とか言われましたが無視して構わず走っていたら、午後からインタビューが殺到してテレビなんかに全部流れていくんですよね。
すると向こうの要人が走っている私を見るために沿道に出てくれるようになって、翌日からイラクの議長も出てきました。
そして走ったら車のクラクションをピッピと鳴らしてくれたりして、「猪木よく来たな!」と温かい歓迎を受けた。
そんなことがあってウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)に会えた。
人質の家族とイラクへ乗り込み、現地でプロレスイベントを開催するなど、友好関係を築くことに腐心しました。
粘り強く、諦めることなくイラクの要人や国民に人質解放を訴え続けた。
その努力が、外務省でさえさじを投げていた人質奪還につながったのです。
(出典元:http://president.jp/)
アントニオ猪木さんがイラクでの人質救出をするまでの活動についてです。
1990年12月にイラクでスポーツと平和の祭典という名の下で新日本プロレス主催の興行があり、結果的に日本人36人、在留邦人5人が無事解放されました。
管理人はアントニオ猪木さんのことはプロレスラーとしてだけしか知らなかったので、当時の行動を知って本当に感動!
当時の国会議員はこの問題に対して動いていたのでしょうが、打開策が見つからず、なかなか解決につながる行動が出来なかった中のことなので、やはりアントニオ猪木さんはめちゃめちゃすごい人ですね!
ちなみに猪木さんの会社が総輸入代理店をしてたようで、タバスコを扱っていており、日本にタバスコ普及に大いに貢献したようですね。
初代のタイガーマスクと猪木さんがタバスコのCMに出演していたらしく、その動画がこちら。
http://www.nicotwitter.com/
当時「私をミスタータバスコとよんでください」と言っていたそうw
話をもとに戻すと人質を本当に助けたいという強い思い、誰もできないことをやり遂げるという強い意志を見習いたいですね。
ここで、アントニオ猪木さんと会談した当時スポーツ大臣として働いていたサダムフセイン大統領の長男のウダイ・フセインについて書きたいと思います。
彼が猪木さんとフセイン大統領との仲介役をしたのでしょう。
ウダイ・フセイン【狂気のプリンス】
名 前 :ウダイ・フセイン
生年月日:1964年6月18日
年 齢 :没41歳
生い立ちは・・・・
父サダム・フセインに甘やかされ、わがまま放題に育ったウダイは、まるで中世の暴君だったようです。
父のサダムから「生まれたときに殺すべきだった」まで言わしめた人物だと言われています。
【狂気のプリンス】とも言われていたようです。
サダム自身が継父から体罰を受けて厳しい教育を受けたため、「自分の子供には厳しいしつけをしたくない」という親心からウダイを甘やかしたようですね。
高校時代は乱暴で手に負えない生徒で実弾入りの弾帯(ピストルの弾をはさめるベルト)を巻いてまで登校してらしいです。
ウダイは車に夢中で、気に入った生徒の父母の車をみつけると護衛に命じて奪ったりもしたようです。
ヤバイですねw
ここまで書いた内容は本当にただの一例です・・・。
ここに書けないような酷い悪行を他にも度重ねてきたウダイは、バグダード工科大学を首席で卒業。
勉強する頭は良かったんだと思いきや毎夜のようにナイトクラブに通っていたことを考えると怪しい成績であり、話によれば、ウダイに高得点を付けない教師は報復として拷問を受けたり、解雇されたりしたようです。
こんなウダイですが後に政治学の博士号を授与されたようですw
その後ウダイはフセイン大統領の後押しがあり政界に進出します。
アントニオ猪木さんと会談をする際、当時ウダイはスポーツ大臣として猪木さんと接触して握手も交わしていました。
ちなみにですが、1993年のサッカーのワールドカップ予選のカタールのドーハで行われた日本代表とイラク代表との試合で「ドーハの悲劇」と呼ばれるようになったその試合の裏には、ウダイによるイラク選手への拷問があったようです。
この当時ウダイはオリンピック委員会長です。
ただこの試合はイラク側が勝ったからよかったものの、もしイラクが日本に負けていたらさらなる拷問ーメンバー全員むち打ちの刑やら手足を縛り、歯を抜き、電気を流し、袋を顔にかぶせ水を・・・・。
(まだ続きはあるのですが、これ以上は書けません。あしからず。)
などのことをする人物だったようです。
父サダムはウダムを後継者にするよう考えていたようですが、1996年に暗殺未遂事件で銃弾を受け足が不自由になって後継者争いから脱落します。
最後にウダムは2003年アメリカ軍に殺害され最期を迎えます。
新聞の死亡記事の中に「中東で誰よりも忌み嫌われている男」と書かれていたようです。
色々みてきましたが、ウダイは様々な名前がついていて、超悪名高かったことが伺えます。
そんなウダイの影武者をしていた男の映画が存在しました!
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ウダイ影武者ラティフ・ヤヒア
当時ウダイの影武者として生きることを余儀なくされた男、ラティフ・ヤヒア氏の自伝を映画化した『デビルズ・ダブル -ある影武者の物語-』
これを見てもウダイはかなりハチャメチャな人物というのがわかりますw
ヤヒア氏は、バグダッド有数の裕福な家庭に生まれ、堅実な人生を歩いていたにもかかわらず、独裁政権下において狂気の男の影武者を務めざるを得ませんでした。
1987年から1991年に影武者を務めた後、ヨーロッパに亡命。
妻と娘とともにアイルランドで暮らすが、今もなおトラウマに苦しめられているようです。
以下はヤヒア氏のコメントです。
「イラクから亡命して20年が経ちますが今も不眠に悩まされ、ぐっすり眠ることはできません。
この映画を見たときは妻が横で『映画だから』と言ってくれたのですが、残る拷問の傷跡がうずき、気持ちを落ち着かせるための精神安定剤が必要でした」
(引用元:http://trendy.nikkeibp.co.jp/)
まとめ
・アントニオ猪木さんは本物の漢(おとこ)だった!
・ウダイ・フセインは暴君だった。
・これからのアントニオ猪木さんの北朝鮮に対しての活動も期待しています。