人は感動すると心が温まり胸がいっぱいになったり、癒されたり、心動かされるものです。
今回は、そんな感動するお話で本当に泣ける実話をご紹介します。
ヤンキーのトシキ君が弟にした行動が感動的なのです。
しかもこの話はリアルなのです。
私の弟
「お前は俺の弟分だ。町、都会、会社、友人、家族、旅行するとき、何かいじめられたらすぐに俺に言え!」
障害を持った私の弟の面倒を見てくれた、あのヤンキー君にもう一度会いたい・・・。
私の弟は28歳で亡くなりました。
もともと、脳に病気を持っていて、それから合併症になり「15歳まで生きられない。20歳まで生きられるとよい」と担当の医者から言われていました。
よくぞ28歳まで生きたものです。
弟とトシキ君との出会い
私の弟が小学5年生の時、母が学校に無理を言って普通学級に編入させてもらった時のことです。
私の弟に、トシキ君と言う友達ができました。
家庭に事情のあるトシキ君は、小学5年生で既にゲームセンターに行ったり、タバコを吸ったりするような早熟な不良でした。
そんなトシキ君はどういうわけか、私の弟の面倒だけはとてもよく見てくれていたのです。
子供は残酷なものです。
クラスの中に呼吸器をつけた子には優しくはありませんでした。
私の弟は男の子だけでなく、女の子からも陰湿なことをされました。
しかし、それは弟のそばにトシキ君がいない時だけを狙って起こっていました。
弟が母に言います。
「トシキ君がね、誰か僕をいじめられたらすぐ俺に言え。お前は俺の弟分だからな!!だって言うんだ。」
「でも弟分ってなんだろうね。子分の事かな?」
弟はいつも家に帰ると母と私にそう言っていました。
弟が修学旅行に行く途中、バスの中で弟がおもらしをしてしまった時がありました。
弟の同級生は、その件を少し笑いながら一歩引いて見ていましたが、トシキ君は弟のおもらしの世話をしてくれたのです。
当時6年生の男の子のトシキ君がしてくれたのです。
弟の友達のトシキ君
小学校を卒業した弟が養護学校中等部に入ると、トシキ君くんはより一層気合の入ったヤンキーになっていました。
しかし、トシキ君は弟の養護学校のバザーに来てくれたり、養護学校の生徒たちによるフォークダンスに参加してくれました。
私は、なぜこのように優しい子が不良になるのだろうかと不思議に思っていました。
その後、トシキ君は何をやったのか警察に連れて行かれてしまいました。
少年院に入ったと聞きました。
そしてトシキ君は東京に行ってしまったとも聞きました。
とにかくトシキ君とはそれっきり疎遠になってしまいました。
弟の木箱
弟が死んだ時、28歳という短い生涯を表すかのように、身の回りの持ち物も本当に質素なものでした。
私も両親も、弟に「やっと楽になれたね。よく28歳まで生きたね。」と、落ち着いた気持ちで、その事実を受け入れながら弟の所持品を整理していました。
すると、弟が大切にしていたであろう「木箱」を見つけました。
私は母と二人でそっとその木箱の蓋をあけ、中を見た時、私も母も胸が締め付けられる思いになりました。
涙が止まらなくなっていました・・・・。
弟の大切な宝物
木箱の中には、弟の宝物がいくつか入っていました。
それは、「1枚の写真」と「手紙」でした。
手紙は薄紙で包まれるほど、特に大切にしまい込んでありました。
写真は弟の養護学校時代のものでした。
弟の隣には、寄り添って腕を組みカメラにガンを飛ばす金髪少年が写っています。
「そうだったのか。トシキ君。私たちが知らない時でも、弟のいる養護学校にわざわざ訪ねて来てくれていたんだね。」
手紙はどれも便箋1枚に少ない文字のものばかりです。
「おまえはいつでも俺の弟分だ」
とか
「早く元気になれ。ドライブに連れてってやる」
とか
「寂しくなったらいつでも言え。すぐ俺がきてやる」
とか
ぶっきらぼうに書かれてありますが、弟を強く励ます一行、二行の文章がありました。
母と私はそれらを前にして、涙をこらえることができずにいました。
トシキ君。
今どこにいるのですか。
元気で幸せに暮らしていますか。
私は今すぐ君に会いたい。
会ってすぐにその手を握りしめたい。
心優しきヤンキー君。
君のそのキレイな心は外見では決して計ることはできないです。
そして君に心の底から伝えたい。
ありがとう。
ありがとう。
コメント