馬淵史郎(まぶちしろう)監督は高知県の明徳義塾高校の野球部監督ですが、松井秀喜に5打席敬遠して有名ですね。
そこで、馬淵史郎(明徳義塾監督)の息子や人柄!松井秀喜を敬遠した理由や野球指導法についてご紹介します。
経歴やプロフィール、成績や松井秀喜の敬遠の真実も気になります。
馬淵史郎監督は人柄がよいと記者たちにも人気で評判です。
しかし、馬淵史郎監督は甲子園で松井秀喜選手に対する5打席連続敬遠したイメージが強く残っている人も少なくありません。
そんな明徳義塾の馬淵史郎監督はどのような人物で、どのように甲子園を目指して高校野球をされてきたのでしょうか。
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明徳義塾高校とは
明徳義塾高等学校は、高知県須崎市にある1976年創設の中高一貫の私立高校です。
野球部以外にもスポーツ全般的に熱心で活発な活動をしています。
また、スポーツ留学する外国人の学生も多いです。
そのため、明徳義塾高校は、一流のアスリートを多数輩出しています。
・第68代横綱 朝青龍元大相撲力士
・プロ野球(ヤクルト)森岡良介選手
・プロゴルファー松山英樹選手
プロゴルファー横峯さくら選手
・オリンピック出場選手など
明徳義塾高校の野球部部員は毎年100人以上。
全国でも甲子園常連校として人気の高校であり、全国でも野球強豪校としてランク付けされています。
明徳義塾高校野球部の成績はこちらです。
春:19回出場(ベスト4進出2回)
夏:22回出場(優勝1回、ベスト4進出3回)
そんな明徳義塾高校を率いる馬淵史郎監督についてご紹介します。
馬淵史郎(明徳義塾監督)のプロフィール
名前:馬淵史郎
よみ:まぶちしろう
生年月日:1955年11月28日
年齢:66歳
出身:愛媛県八幡浜市
高校:愛媛県立三瓶高等学校
大学:拓殖大学
ポジション:内野手
所属:阿部企業→明徳義塾高等学校
職業:社会科日本史の教員
野球部監督
馬淵史郎(明徳義塾監督)の経歴
愛媛県の大島という漁師町の小さい島で生まれ育ちます。
タコやウニをとっては親や先生にもういいよというくらい持っていってあげていた少年でした。
そんな馬淵史郎監督は愛媛県立三瓶高等学校から拓殖大学に進学します。
大学卒業後は故郷の愛媛県松山に戻り、鉄パイプの販売会社やプロパンガス会社に就職します。
その後、高校時代の恩師・田内逸明氏に誘われ、1982年に警備会社の阿部企業のマネジャー兼コーチを引き受けます。
しかし、恩師が急逝。
チーム最年長の馬淵史郎氏が27歳の若さで社会人野球の阿部企業野球部監督を引き受けて就任しました。
その後、阿部企業を率いて社会人野球日本選手権で準優勝を果たしています。
馬淵史郎監督は高校生時代から「事なかれで済まさず、あえてやっかいな道を選んでしまう性格」だったために「コト起こしの史郎」と呼ばれています。
そんな馬淵史郎監督は弱小の社会人野球チームを全国大会で準優勝まで育てあげたのでした。
ようやく結果を残すと社会人野球の監督職を退きます。
しかし、野球から離れたと思ったのですが、また野球にご縁が会ったのですね。
翌年1987年、明徳義塾高校野球部コーチを経て1990年に明徳義塾野球部監督に就任しています。
ちなみに、馬淵史郎先生は、社会(日本史)の先生としても教壇に立っています。
日本史の先生ですが、歴史には相当詳しいそうですよ。
1982年社会人野球の阿部企業の野球部コーチに就任。
1983年社会人野球の阿部企業の野球部監督に就任。
1986年阿部企業率いて社会人野球日本選手権で準優勝。
1987年明徳義塾高校野球部コーチに就任。
1990年明徳義塾高校野球部監督に就任。
1992年夏の甲子園で松井秀喜への5打席連続敬遠。
2002年夏の甲子園で優勝し全国制覇。
馬淵史郎(明徳義塾監督)の成績
明徳義塾高校は春夏通算で41回も甲子園出場している常連校ですが、馬淵史郎監督が監督として甲子園出場した回数は36回。
どれだけすごい監督なのかわかりますね。
馬淵史郎監督は、1990年から高校野球の監督に就任していますが、甲子園での春夏通算勝利試合数は54勝です。
これは、甲子園で50勝利達成した監督としては、史上5人目の成績です。
馬淵史郎監督は、四国地区では最多勝利監督。
<馬淵史郎監督の成績>
明徳義塾監督:1990年~
甲子園通算:出場36回(春15回・夏21回)
通算成績:54勝34敗
優勝回数:1回(2002年)
記 録:出場大会初戦20連勝
甲子園で50勝をあげた馬淵史郎監督。
2018年8月に、スポーツ ノンフィクションの本「甲子園!名将・馬淵語録 明徳義塾野球部監督 馬淵史郎の教え」を出版しました。
建前なしの高校野球論、馬淵史郎監督の教えが書いてあります。
高校野球ファンにはたまらないですね。
甲子園!名将・馬淵語録 明徳義塾野球部監督・馬淵史郎の教え [ 寺下友徳 ]
馬淵史郎(明徳義塾監督)が敬遠した松井秀喜との試合
馬淵史郎監督が監督就任した2年後の1992年、夏の甲子園で社会的に大きな話題となった試合がありました。
それは第74回全国高校野球選手権大会の2回戦。星稜高校(石川)と明徳義塾高校(高知)の試合です。
馬淵史郎監督は当時、石川県の星稜高校の4番打者の松井秀喜選手に対して、「勝負しない作戦」をとります。
「勝負しない作戦」とは、松井秀喜選手を5打席連続(全打席)敬遠という作戦だったのです。
そのため、高校球児だった4番の松井秀喜選手は、一度もバッドを振ることなく甲子園を去ったのです。
当時、超高校級の打者、「怪物」として注目されていた松井秀喜選手の活躍を見ようと、集まった満員スタンドからブーイングがあり場内は騒然としました。
星 稜001_010_000:2
明徳義塾021_000_00x:3
そうして当時の試合結果は馬淵史郎監督率いる明徳義塾が3-2で、勝ちました。
これは、とにかくまず1勝して前進することを第一に考えた明徳義塾監督の考えだったと思います。
2018年のワールドカップの日本VSポーランドの「積極的に戦おうとしない消極的な試合」と似ているかもしれませんね。
馬淵史郎監督自身も、本意ではないやり方だったのかもしれません。
馬淵史郎(明徳義塾監督)の松井秀喜を敬遠した理由
この5打席連続(全打席)敬遠の試合は、プロ野球ではなく「高校野球」で起こったことなのでメディアでも大きく取り上げました。
もともと、馬淵史郎監督の野球は「確率論」を基本にして勝負に勝つというこだわりを持っているようです。
それが馬淵史郎監督が松井秀喜選手に5敬遠した理由のようですね。
当時、明徳義塾には絶対的なエースが故障していていなかったのです。
松井秀喜選手を相手に投げていたのは、コントロールのいい、本来は外野手だった河野和洋さんでした。
馬淵史郎監督は、なんとエースがいないためにベンチには投手を5人も入れていたそうです。
そんな馬淵史郎監督は、当時は監督自身がまだ若くて勝つことに必死で勝ちにこだわっていたのでした。
馬淵史郎監督も、
「少しでも試合に勝とうとすることが、教育につながると思っていた」
と言っていました。
しかし、当時そのような思いを持っていたのに、突然マイクを突きつけられて発言する余裕もなかったそうです。
どうやら、高校野球において「勝負」「経験」「教育」などどこに重きを置くかで監督の戦術は異なるようですね。
・「敬遠する」監督は、勝敗にこだわる人。
・「敬遠しない」監督は、経験や教育を重視する人。
当時の馬淵史郎さんは「勝負にこだわることが教育につながると考える監督だった」のかもしれませんね。
今の馬淵史郎監督は、敬遠についてこのように言っていました。
・やりたい作戦ではなかったがエースがいたら勝負していた。
・当時の敬遠も、勝つための確率を逆算すれば必然の策で、色んなことが重なってしまった運命だった。
・松井秀喜選手には嫌なつらい思いをさせてしまったと思っている。
・今ならやらない。
・本番のゲームの流れで作戦を変えていくが、敬遠ではなくもっと別の方法を考える。
馬淵史郎(明徳義塾監督)の人柄
そんな過去を持つ馬淵史郎監督ですが、インタビューする記者に人気の監督です。
どのような監督なのか調べてみると、
・インタビューする記者によって態度を変えたり馬鹿にしたりしない。
・どんな質問にもきちんと誠実に答えてくれる。
・テレビでインタビューを受ける時も、プライベートで話す時も全く態度が変わらない。
・損得勘定なく奉仕癖のある人である。
・「誉めるところはあっても、けなすところの無い男です。甲子園での実績も素晴らしいものがあります。勝負に対する強い思いや、はっきりした言動で世間では誤解されている部分もあるようですが、先輩への気遣いや生徒への思いなど感心する事が多く、深く付き合えば彼の男気を感じるはずです」(愛媛新聞インタビューより)
甲子園の監督さんは、インタビューする記者の質問に対して適当に対応したり、馬鹿にした表情をする人もいるそうですが、馬淵史郎監督はそれが一切ないそうです。
インタビューする記者によって態度を変えることもなければ、きちんと答えてくれる誠実な監督のようです。
幼き少年の頃のように、損得勘定なしで奉仕する性格は根っからの体質のようですね。
そんな馬淵史郎監督はどのような、野球指導を行っているのでしょうか。
馬淵史郎(明徳義塾監督)の野球指導法
師弟同行の教育
明徳義塾では野球部員は全寮制のため、馬淵史郎監督も寮での生活をしています。
監督と部員が生活を共にして常に一緒に行動をしていました。もちろんお風呂も一緒に入ることも。
そうして馬淵史郎監督は、ある時は父親代わり、ある時は母親代わり、ある時は兄貴代わりに努めます。
熱が出たら病院に連れていくのも監督です。
自分の子どもの運動会などは一度も行ったことがないそうですが、野球部員との絆はとても強く、お互いの信頼は厚いようです。
このように、普段から信頼を築き上げているからこそ、プレッシャーに押しつぶされそうな甲子園の舞台でも一心同体となって戦っていけるのでしょう。
人間力
甲子園優勝を目指して野球に集中して過ごす野球球児たちには、野球が終わると燃え尽きてしまう人が全国にも多いそうです。
そのような野球人間にならないように、馬淵史郎監督は野球指導を通して人間力の教育も行っていました。
それは、野球指導を通じて礼儀や一般的な常識や知識など、社会でも通用するような人間を養成することです。
このように、全国的にも強豪校の監督の野球指導法は、野球だけでなく生徒たちの将来を含めた人間力を教育しているのですね。
強豪校の監督は、ただ練習をして強いだけではありませんね。
そんな馬淵史郎監督にも、息子さんがいます。なんと、野球部に所属していました。
馬淵史郎(明徳義塾監督)の息子
馬淵史郎監督のご子息は馬淵烈さん。1989年生まれなので現在30代。
馬淵史郎監督の息子の馬淵烈さんは明徳義塾高校の野球部に所属していました。
明徳義塾高校の野球部ではエースで主将を務めています。
馬淵烈さんは馬淵史郎の息子ということで注目が集まり、「馬淵監督の息子だからレギュラーになれるのでは」と言われて悔しい思いをしたこともあったそうです。
これは高校野球監督の息子さんあるあるではないでしょうか。
レギュラーにしてもしなくても、監督の息子という看板で注目されるので実力があって努力している息子選手に厳しくしてしまう監督さんもいると思います。
馬淵史郎(明徳義塾監督)のまとめ
仲間の大切さや周りの人への感謝、目標達成するまでの過程、いろんなことを高校時代の3年間で経験するのですね。
高校時代にへこたれない強い精神力や厳しい練習で鍛え抜かれた経験は、今後社会に出ても強い人間として活躍できると思います。
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